次失敗したら諦めようと思ってる人の文

何を思ったのかわからないけども、なんとなく文字にしたい。これを読む皆様、もしくは今後これを読む自分へ。少しお付き合いいただければ。

文章の才能もなければ、書き方のセオリーもなっていないだろうけども。

 

僕が小6の頃、親が離婚した。離婚朝廷は3年くらい続いて、オカンに親権が渡った。とにかく家庭荒れてて、親父の虐待とかオカンの浮気とか金とかなんやかんや。

僕が高校入る直前くらいに、親父からの養育費が支払われなくなった。

オカンがなんとか高校入れてくれてからはとりあえず自分の授業料の足しとお小遣い稼ぎだ!と週4でくら寿司でバイトした。

アルバイトを始めたは良いものの、なんとなく「周りと噛み合わない」「なんかよくわからんけど人の言ってること以上のことがわからん。」と感じるようになった。

とにかく勘違いが多い、言葉の聞き取りができない、「自分で仕事探して頑張るんや」がわからんすぎた。

めちゃめちゃ怒られても、なんでできないのかわからない。ミスったことを書くミスノート、汚名返上用の得意ノートも作った。でも毎回違うことをちょっとずつミスする。iPhoneに指摘されたこと、自己分析、うまくできる仕事チャート、とにかくいっぱい分析しまくったけど、なんかうまく噛み合わなかった。本当に。

だから「僕、頑張ってます!」をアピールするために誰よりも声デカく「誰か〜!」にも、いの一番にハイ!って行った。

できないことはこの「速さ」と「根性」で他人と勝負した。

高校卒業した時、家にお金がないから自衛隊に入ろうとした。最終試験直前の『入隊前問診票』みたいなやつに「今までの病気を申告してください。」の欄があった。

記入するためにオカンに「僕って今まで病気なんかあった?」「えー...強いていうならちっちゃい頃ADHDって診断されたな」って言われた。

そのころはまだまだADHDなんて言葉も有名じゃなかった。バイトのミスをネットで検索したときに発達症関連の記事が出てきたので、たまたま知ってた。

「え、もしかしてADHDとかいうやつ?」オカンは「先生はそう言ってた」と。

なんか、なんで今までバイトのミス多いって相談した時から言うてくれんかったん!とか、ほぼ入隊前のこの時になんでそんなこと言うねん!とか色々おもったけど、「そっかぁ」とだけ返した。

虚偽報告で入隊しら除隊させる可能性もあると知って怖くなったので問診票に「多動症の可能性」と書いた。まぁ当然落ちた。

持ち前の「速さ」と「根性」だけは負けない自信がある!もう一回だ!と思って浪人して自衛隊エリートコース生みたいなやつ(航空学生)を受けた。

良い線まで行ったけど結局落ちた。

仕方なく就職するかとおもった時、オカンが大学に行ったらと言い出した。

なんやかんやあって映画が好きだったから映像系大学に行った。入学時20歳の年。

大学で撮影が大好きになって、自前のカメラも買ったりとにかく友達と映画やドラマを作ったりしまくった。

ある時彼女ができた。彼女はすごく気さくな人だけど、彼女との会話が噛み合わないことが多い。僕は言葉が咄嗟に出てこないし、主語のない「あれ」とかそういう会話が理解できなかった。

できないならできるようにしよう。言葉の勉強をするために「こう言う時はツッコミを入れると笑える」とかなんか項目ごとに分けて分析したノートを作ってた。

卒業してからの就職先は2年間インターンしてた、毎日ブラックの極みみたいな働き方をする映像制作会社にした。できないことも多いし、ADという職業は他人に気を使い、視野を広く見るという、ミスの多い僕に到底向かない仕事だった。でもキツすぎる職業だけど周りの先輩も面白いし撮影現場大好きだし、カメラマンとか照明マンとか技術職人さんたちと仲良くなれてめちゃくちゃ楽しくて、寝れなくても、ご飯食べられなくても全然耐えれた。僕は下っ端アルバイトADなのにカメラのことになったら先輩は僕に頼ってくれて、次回撮影機材リストとか見してくれたり、「お前の好きなカメラで今度撮影するから現場来いよ!!」ってすごい頼ってくれた。

本当に楽しかった。

就職してから2ヶ月経ったあたりで、実家を出た。いつまでも親と一緒じゃなくて大人の生活をしてみたかったから。

ある日、職場の尊敬する先輩が軒並み退職した。キツい先輩たち数人と新人の事務と僕だけが残った。「終わりだ。」嫌な1日が始まったなぁとベッドに沈み込む重い上半身を頑張って起こしたのを覚えてる。

ここから全てが変わり出した。